2005年1月アーカイブ

 NHKが朝日新聞に対し公開質問状を出し、朝日新聞が法的措置を前提とした通告書をNHKに送る事態となった。場合によっては法廷の場で決着をつける可能性も出てきた以上、両者でやりとりする内容について、外部の私があれこれ言える段階ではなくなったと感じている(それでも言えることについては言いたいと思うが)。
 ただ、この問題の本質はどこに有るのか、1月16日のエントリーとコメントのやりとりを通じて得た情報や考えたことも含め、改めて私なりの考えたことを整理してみたい。
 (かなり長文になってしまいましたのでご注意ください)

クルド人親子を強制送還 国連の難民認定者で初(共同通信) from goo ニュース 2005.1.18
法務省、クルド人親子を強制送還 UNHCRなど抗議(朝日新聞) from goo ニュース 2005.1.18

 国連によって難民と認定されているのに、それを無視ですか。本国じゃあ何をされるかわからないくらい危険な身分であることは容易に想像つくはずなのに。日本の難民政策は、本当に、根っこからおかしい。

 こんなことをやっているから、いつまでも、隣国からさえ「おかしな国」と見られるんだよ、まったく。つくづくいやんなる。

NHK番組に中川昭・安倍氏「内容偏り」 幹部呼び指摘(朝日新聞) from goo ニュース 2005.1.12
社説=放送番組介入 憲法のイロハを無視 from 東京新聞 2005.1.13
NHK従軍慰安婦番組改ざん/奇怪な弁明はじめた from しんぶん赤旗 2005.1.15

 まず、この問題について、告発することを決断したNHKのチーフプロデューサー氏に敬意を表したい。想像されるあらゆる不利益を引き受けようという覚悟はいかほどのものか、本当に想像つかないが、この行動が日ごろ「世の中をよくしたい」と思っている人々を励ますものになっただろうと信ずる。

 この事件の問題点は、番組の内容に関係なく、権力を背景にした人間(政治家や組織経営幹部)が放送内容に関して事前に「意見」したことにある。番組の内容が偏向しているとかしていないとかいうことが問題なのではない。
 その観点から見て、安倍・中川両氏の行為が「介入」でなければなんなのだろうと思う。放送法に言う「政治的に公平であること」(第3条の2の2=法庫より)ということは、第3者からの事前の干渉から自由であるということ。それを破ったことが問題なのだ。放送された後に、番組に対する批判を行うなら、こういう問題はおこらなかったであろうはずなのに。
 番組制作に第3者が介入しないことと、その番組が公開されてそれに対する批判や評価が第3者によって自由に行われることをもって、政治的公平が担保されるものであり、いくら内容が気に入らないといって、第3者(特に権力をもった者)が事前に「意見」することは、政治的公平を損なうものにしかならない。

共産ビラ配った僧起訴 弁護側『言論の弾圧』 from 東京新聞 2005.1.12
ビラ配布弾圧/不当逮捕の男性起訴/東京地検 表現の自由侵す暴挙 from しんぶん赤旗 2005.1.12

 起訴した東京地検は「ビラ配りイコール犯罪とは言っていない。内容は関係ない」(東京新聞1月12日付社会面=サイトに未掲載)と言っている。近隣で窃盗被害が出ており、不審者に神経をとがらす住民感情も考慮したともいう。ならば、商業宣伝のビラや風俗のビラなどの配布なども取り締まらなければいけないだろう。しかし、これまで宣伝ビラ一般の投函行為に対して刑事責任が問われていない現状を考えると、先の立川の反戦ビラや今回の共産党ビラ配布で逮捕・起訴されたことは、「安全」「安心」を求める住民感情を警察・検察が恣意的に利用した「いわゆる『反体制派』に対する政治的弾圧」と言えるのではないか。同じ東京新聞の記事には、同じマンションに住む住民の声として「見知らぬ人を見かけると不安になるが、ビラ配りで起訴とは驚いた。被告は素直に反省すべきだったのかも」とか「空き巣、窃盗などもっと悪い人はたくさんいる。ビラ配りで起訴というのは行き過ぎでは」という言葉を紹介していた。この報道を信ずるなら、見知らぬ人に来られるのはイヤだがこの程度で起訴か、という普通の人たちの戸惑いが読みとれるというのは、私の「読みすぎ」だろうか。
 住居侵入という点に限ってみても、私的とみなされる領域に入り込んだ、ということが要件を満たすとして、実際の被害がどれぐらいあったということが、違法性が高いかどうかを判断する分かれ目になるのではないか。となると、今回の葛飾の政党ビラ配布行為による実際の被害とはどれだけあったのか、ぜひ知りたいところだ。

 いずれにせよ、東京地検の起訴によって「ビラ配り」が再び司法の裁きを受けることになった。先の立川反戦ビラの件は無罪となったが、もし今回これが有罪となれば、意見の表現の方法について刑事的な側面からの法的制限が加わることになる。もう表現の自由に対する新たな制約としか言えないが、これは「法の範囲内での自由」を定めていた旧憲法(明治憲法)の規定とどれだけ違いがあるのだろうか。

 奈良の小学生誘拐殺人事件について、今のところ報道されている以上のことを私は知らない。なので、今私が事件に言えるのは、被害者の冥福を祈るとともに、容疑者に対して、本当に事件を起こした当事者なら、すべての事実を明らかにしその重みを受け止め、残りの一生を償いに費やすべきだということしかない。

 捜査の進展によって、容疑者の生い立ちや人となりが徐々に明らかになってきている。それを見て、1989年に起きた幼女連続殺人事件の容疑者のことを思い出した。今回の容疑者の人物像についての報道のされ方が、1989年の事件の容疑者のそれの繰り返しかと思えるほどそっくりに見えるのは偶然か。年齢も、今回の容疑者とあの時の容疑者はほぼ同世代に属するのもそうだ。
 彼らが10代から20代前半という多感な時期を過ごしたのは、バブル時代前の1980年代に属する。多少時期はズレるが、昨年死刑執行された宅間死刑囚も、同じ時代に少年期・青年期を過ごした者ではなかったか。漠然としすぎているとは自覚しているが、ここに彼らの人間形成に影響を与えたモノの共通点はないのだろうかと思ってしまう。

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