スポーツに取り組む人の姿に強い魅力を感じることに、身に覚えがある人は少なくなかろう。スポーツが本来的に持っている「健全さ」「真摯さ」という特性は、スポーツをする人・観る人の気持ちを捉えて離さない。それはそれでいい。
だが、スポーツの持つ健全さについて、それが「そうであらねばならないこと」に転化すると、そこからファシズムへの道が始まってしまう。
スポーツに代表される「健全さ」に魅力を感じることと、「健全であること」を他者に求めることには大きく違う。前者は個々人の感情だが、後者は他者への同調圧力となり、いずれそこからの逸脱を許さなくなる。
ファシズムとは、際限なく他者に同調することを求め続けることにある、と考える。その結末は、明治維新から1945年に至る大日本帝国の足跡をたどれば自明であろう。それは国民に対し、国体に際限なく同調を求め続けた結果の国家体制の破綻であった。ただし、それは国民が求めた面も多分にあるが。
いままた、先行きの見えない不安に直面し、何かに頼りたい気分が蔓延しているこの国において、スポーツが示す「健全さ」「真摯さ」が何をもたらすか。いま一度立ち止まって考える必要があるのではないかと思う。
2020年東京オリンピックが、1936年のベルリンの再来にならないよう。
]]>おそらく、氏自身にそのような認識はないだろう。そして「私はちゃんと現実を見据えて行動している」とでも反論するだろうし、氏自身がそういう認識を持っていることもおそらく間違いないだろう。
でも、だからこそ感じるのだが、氏の世界認識は常に閉じており、その「認識」の外側にある事柄とは一切のつながりをもたない、とどうしても感じてしまうのだ。
いや、閉じてつながりを持たないだけならまだましだ。なぜなら、そこには「殻を閉じてつながりを拒否する外部」としての現実の存在が示唆されているからだ。
氏の認識がやっかいなのは、自分が認識する世界が世界中の誰とでも共通であるということを、些かの屈託もなく自明のもの、前提としてほぼ無意識的に認識しているだろう点にある。氏は、自分の世界観と他人の世界観に境界はないと、無意識的に感じているのではないか、と思ってしまうぐらいである。
例えば「TPPに反対するのは左翼」とか「左翼の人々が演説を妨害」などという書き込みがある。一昔前の政治家なら、このようなことを言う/書くにしても、なぜ自分がそう言うか説明を加えていた。その姿勢には、自分とは違う形で世界を見ている人々がいる、そういう「自分」と「外部」とのつながりを意識しているからこその「姿勢」であると言える。
しかし安倍氏は、そういう説明を一切しないままに、実に屈託なくあっけらかんと「お前は敵だ」というようなことを言ってしまう。説明もなにもないままに感じたまま言っている、そんな印象だ。
ろくに説明もせず、屈託なく言い切るのは、自分の認識する世界観がそのまま世界であると認識していることの反映に他ならないのではないか。「信じている」と書かなかったのは、実際に信じているのではなく、それが当たり前であることを自らの存在をもって示しているのであって、信じる信じないの次元の話ではないからだ。安倍氏は、自分が認識している世界以外に、何かが存在していることすら思っていないのではないか、とすら思う。そういう意味で、安倍氏の「世界」は、「世界」の「外部」の存在すら感じさせないほどに閉じきっている。だから、自分に反対するものに対して、「左翼だ」「論外だ」と、ろくな論拠も示さずに言えてしまうのだろうと思う。
自分の認識する世界で、自分の思うとおりに振る舞う。これほど居心地のいい「世界」もあるまい。そういう「世界」を自明のものとして、その「世界」で生きる安倍氏には、自分の考えや思いを他人に説明する必要はない。なぜなら、その安倍氏の認識する「世界」は既にみんなに認識され共有されていることが前提になっているからだ。
今の世の中には、実に多くの「物語」が商品として流通しており、それこそ「閉じきった世界」を表現した物語も容易に探せるだろう。「閉じきった物語」には、基本的に「外部」に当たるものが存在しない。外部が存在しないから、物語の中では「衝突」が起こらず、常に安定した世界が保たれる。そしてその「物語」の中に居る者は、「物語」が続く限り自らの存在意義を問われることもなく安定して存在して居られるのだ。
「安倍晋三」という存在は、そんな「世界」の「住人」を体現しているのではないか。そう思う次第だ。
さて、参議院議員選挙が始まる。この国の住人はどういう選択をするのだろうか。
]]> 個人的には、たまたま出張で大阪にいたので、家族の無事はメールと電話で確認したが、東京の状況がまだよくわからない。東京にいるカミさんも友人知人も「人生で最大規模」と言っていた。東京でそうなのだから、東北地方の現地はどれだけひどいのか、想像もつかない。
地震発生時は、高層ビルの上層階にいた。すごくゆっくりした揺れがだんだん強まってきて、室内のモノが部屋を走り始めた。1回の揺り返しが10秒ぐらいかかる。ビルのあちこちからギシギシと音がした。これが長周期の揺れか、と思いながら、踊り始めた可動式パーティションを動かないよう押さえていた。フェリーで大波に揺られている感じ。気持ち悪かった。
今日これから東京に戻る予定。東京はまだ鉄道が混乱している模様。東京に着いたあと家までたどり着けるか。ま、なんとかするしかない。
]]> でも、この民主党代表選はかえっていい機会かも知れない。小沢氏が総理になることで、強いリーダーシップによりかかるようなメンタリティが崩れ去る時期が早まる可能性が高まるのだから。
誰がリーダーシップを持っているかなどという、どこまでも強い誰かに依存するような不毛な振る舞いがなくなって、ひとりひとりが自らどう行動するか、そしてそこから始まる新しい運動の可能性が高まるのだから。
ということで、最近のこれらの騒動の主たちがこれからどう振る舞っていくかを、じっくり見極めていきたいと思っている。
]]>そんな支持率の回復を見越してか、菅内閣からは、法人税減税とセットになった消費税増税への言及が公然となされるようになった。「強い経済」「強い財政」「強い社会保障」のために不可欠だと言わんばかりだ。
]]> 確かに社会保障を充実させるためには、その方面への大幅な歳出増が必要であろう。経済規模に比べ、貧弱な社会保障しかないが故に、長い間社会に深刻な問題が数多く引き起されてきたのは論を待たない。社会保障を充実させなけければ、安定した社会なぞとても望めない状況にあるのは、どんな立場の人でもある程度共通にある課題だと思う。それなのに菅内閣は、社会保障強化を経済強化と財政再建とセットで出してきた。しかも主要閣僚はさらに踏み込んで、法人税率の引き下げと消費税増税をセットにと発言している。税負担の軽減で経済活動の活性化を支援しつつ、財政再建と社会保障拡充を消費税増税でまかなおうという狙いである。企業負担の軽減と国民負担の増加という政策である。
しかしこの政策は、細かい違いはあれど歴代の自民党政権がずっと採用してきた政策だ。企業負担の軽減と、主に社会保障の削減を軸とする国民負担の増加という路線は、特に小泉政権時代にあからさまに推進された。その結果がどうなったか、説明するまでもないだろう。あまりに矛盾を拡大させた結果、小泉以降の自民党政権はその矛盾をどうすることもできずに自壊していった。
その破壊された社会保障を立て直すという方針自体はよしとしても、それを消費税増税という国民負担の増加で行うというのは基本的に間違っている。なぜならそれは、これまで年々増加してきた国民負担の軽減にはならず、社会保障の負担が軽くなった分が消費税増税でチャラになってしまう。経済強化のための過度な外需依存の解消と安定した内需の確立を掲げながら、その内需の5割超を占める国民の最終消費を回復させるどころか、冷え込ませる可能性さえある消費税増税に言及するのを、矛盾と言わずしてなんと言うべきか。
自民党政権時代に事実上破綻した政策を、改めて前面に打ち出す菅民主党政権は、何のことはない「第二自民党」政権だと言われても仕方あるまい。なにせ1989年の導入以来、2008年までの20年間の消費税の累積税収が201兆円で、同期間の法人税減収額は164兆円。消費税の税収の実に82%が、法人税の減税の減資に使われてしまっているのだから。(菊池英博公述人:消費税抜きでの税収増を考えるべき|第174回国会予算委員会公聴会 from ★阿修羅♪)
社会保障のためと言いつつ、まったくそうなっていない「実績」が既にある。そんな事実を直視しないで、法人税減税とセットで消費税増税を持ち出す菅民主党内閣の「正体見たり」と言うところだろう。
]]>鳩山政権の功績としては、これまで表に出てこなかった事柄をある程度見えるところへ引き出してきたところにある。沖縄・普天間基地問題がその最たるもので、これまで全くといっていいほど出てこなかったことが、首相をはじめ政府関係者から直接語られたことがあっただろうかと思う。
確かに、昨年の衆議院選の「県外、国外」公約から5月の「辺野古」案回帰まで、その経過を見てそのあまりのグダグダぶりに「こりゃダメだ」と思うことがしばしばあった。
「辺野古」案への回帰それ自体は、自ら公約として語ったことを、ほぼ反故にするという点で、全く評価できない。ただ、米軍基地問題をこの国全体の問題として否応なくクローズアップしたことは、歴代の自民党政権にはなかった功績だと思う。
だから、私は鳩山政権はダメだとは思うが、現時点で退陣をもとめるつもりはない。上に上げた功績については、歴代自民党政権に比べればはるかにマシな成果だからだ。この点だけみても、自民党(及び公明党やその類似政党)への政権復帰は真っ平ごめんである。
うーん、たしかにごもっとも、としか言いようがない。そういう自分も、政治が少しずつでもオープンになって、国内がゴタゴタしたほうが、これまでよりよほどマシと思っていたし、事実その通りになってきているのだから、この政治状況は前向きに捉える面があるとも思う。現時点でほぼ実現不可能な「辺野古移設」案は批判しつつ、情勢についてはもう少し冷静に考える必要があると思っている。
]]> 基本パターンは、順番通りに進むこともあれば同時進行のケースもある。各段階に共通しているのは、公式の会議(定例の会議とか全員が対象の総会など)にはまず出てこないで、直接の責任者や言いやすそうな人に、個別にごちゃごちゃ言い続けること。構成員全員がいる場で議論しようと呼びかけると、意味不明な理由をつけて欠席するか、しぶしぶ出てきてその場では一切何も言わない。
和を重視する人が多い組織の場合、直接の責任者が折れて、モンスター側の言い分が徹ってしまうことがしばしばある。
■対策
1)何か言ってきた場合、その場では絶対議論しない
ほとんどの場合、公式の場では何も言わず、責任者など個別の人をターゲットにモノを言ってくる。そこで議論したら泥沼化は必至。「ご意見は承りました。議論は次の会議にて」など事務的な応対に徹する。
2)議論は公式の場で必ず行う。
どんな組織でも、意志決定の場が定められており、そこの議論と結論を持って組織の方針となる。それを経由しない意見や結論は、その組織の総意とはなり得ないので、その原則を崩さない。つまり「ご意見は会議で出してください。そこで議論しましょう」ということ。
3)済んだ議論は済んだことであること明確に示す
決着済みの議論を蒸し返すことで自らの意見を通そうとするケースが多い。決着済みの案件は決着済みであることを、当事者も含めて組織の構成員全員に明示する。
ただ、議論が決着済みであることの前提条件が変わり、再度議論する必要が出てくることも少なからずある。その場合でも、議論を再開する際には、その前に前提条件が変わったことを、公式の会議で必ず議論・確認する。モンスター側はこのプロセスなしに、議論を蒸し返そうとするので、混乱を避けるために必要である。
4)ボイコットにはあわてず、第三者を加えた話し合いの場を作って、話し合いするよう呼びかける
モンスター側がどうにもならなくなると、たいてい次はすべての会議・行事などにボイコットする行為に出る。追い詰められていることの反映でもあるので、あわてることはない。
この段階になったら、組織の責任者は、構成員への情報提供をしながら、上役/上級機関/公的機関等と相談し、複数の担当者を選んで、当事者と、できれば第三者(上役/上級機関/公的機関等の担当者)を加えた直接の話し合いの場を設け、相手に話し合いを呼びかける。まず一度で出てくるわけではないので、繰り返し粘り強く呼びかける。
この段階にいたって初めて、「モンスター側」の要求と真意をまじめに聞く場ができる。一通り相手の話を聞いた上で、今後の取り扱いも含め、公式の会議に諮る。
私の周りで、現在モンスター化の事例が2件ほど同時進行中でして、あまりに理解不能なので、どうしてだろうかと考察してみたものです。どこまで一般的に当てはまるかよくわかりませんが、私が見聞きし経験した範囲では、こんなものじゃなかろうかと思っています。
根っこには、自分の考えをきちんと伝えるための表現方法や、実際の集まりの中でそれを行う手立てや段取りに通じていない/知らないことがあると思っています。膝詰めで、まじめに相手の話を十分に言わせる機会を持てば、たいていは収まるものだと思うのですがねぇ。
正直なところ、「起訴相当」でも「法的に問題なし」でもどうでもいいと思っている。むしろ問題は別の所にあると思っている。
それは民主主義のあり方という点について。
例えば、小沢氏が地元岩手で作り上げているとされる「支配の構造」が、いわゆる民主主義における民意の反映のプロセスに何らかの影響を与えていないか、という点を気にしてる。
つまり「たしかに現行法の範囲では法的に問題ないお金かも、でもそのお金でいったい何してるの?」ということだ。そういう観点から、今回の件にかかわらず、自らの政治資金のことについて、小沢氏にはもっと説明する責任はあると思っている。
検察については、どうのこうとと思うところはあるが、それはまた別の話にて。
]]>名古屋市議会の4月臨時会が19日、開会し、河村たかし市長は、2月定例会で減額された地域委員会の関連予算約4200万円の復活を盛り込んだ補正予算案や、「2010年度限り」と修正された市民税10%減税の恒久化、議員報酬を半減する条例案などを提出した。河村市長は議員報酬と定数の半減を訴えてきたが、臨時会では報酬に絞った。
議会側は補正予算と減税は「2月定例会で決着済み」として否決する構え。議員報酬は市民から「高すぎる」との声が強い現状を踏まえて各会派で見直す議論も始まっており、焦点になりそうだ。
河村市長は提案理由で「減税、地域委員会、議会改革は『主権在民3部作』。政治はどうあるべきかを問いたい」と表明。「報酬削減は多くの市民が望む改革。議員が税金で身分保障される現状を変えたい」と訴えた。
質問に立った鷲野恵子氏(共産)は「臨時会は必要性も大義もない。招集権の乱用だ」と市長の姿勢を批判。報酬について「半減を押しつけるよりも、市民も加わった第三者機関で決める方が民主的だ」と迫ると、河村市長は「まず議員自身がいくらが適当か言うべきだ」と反論した。
梅村麻美子氏(民主)は「市長の悪意に満ちたウソで、過度の議会批判の世論が形成された」と市長を批判。河村市長は「人を犯罪者扱いして名誉棄損だ」とやじで応酬した。東京都にしろ大阪府にしろ千葉県にしろ埼玉県にしろ横浜市にしろ杉並区にしろ・・と書き連ねるときりがないくらいに、ポピュリズムの手法を使う「首長」が多いことにうんざりする。
名古屋市の河村たかし市長もそのひとり。「改革」だと言って議会を非難し、市税10%減税を議会が否決したことを利用して(というより否決することを見越して)、議員定数と報酬の半減を持ち出した。
]]>たしかに政令市や県議レベルになると、議員報酬もそれなりの額になる。それに見合った働きをしている議員がどれだけいるかと考えると、とてもそうは思えない議員も少なからずいるのは、地元の議会議員を見ていてもわかる。
だからといって、「あいつらは税金泥棒だ。やめさせるか報酬半減だ」と言いつのるのは民主主義的に正しくない。それは、言ってしまえばナチスの手法と同じだからだ。「奴らは敵だ。だから排除しなければならない」と言っているのと同じだ。
必要なのは、本当に見合った仕事をしているかどうかを徹底して調査することだ。それも、当事者を関わらせない第3者の徹底調査が。そうして明らかになった事実を元にして初めて、どういう対応をすべきかを、当事者や有権者がともに考えるのが民主主義の筋である。こういうプロセスそのものが民主主義なのだ。
そのプロセスを飛ばして「あいつらはダメだ。そういう状況を改めなければならない」というようなことを言うのは、たとえ100%正しいことを言っていても、民主主義をまったく理解しておらす、市長のような一定の権力を伴う地位につくにはまったくもってふさわしくない。名古屋市のケースでは、議会側に批判されるべき点が多々あったとしても、市長がそれを取り上げて「やつらの頭数を減らせ。報酬を半減しろ」というのは、まったく正当性を持たない。
しかも、それをどっちもどっちみたいにしか取り上げないメディアの姿勢もおかしい。民主主義の大切さを理解しているなら、ポピュリズム的手法をつかうことに批判を加えるべきである。そういうことをしないで両論併記みたいな立場をとるから、信頼を落とすことになる。
しかし、上で上げた自治体だけでなく、この名古屋市といい、鹿児島の阿久根市といい、どうしてこうアホな(以下略)
]]>結論から書く。クドカンの「大江戸りびんぐでっど」は面白かった。これも「ちゃんと歌舞伎」であると思ったし、かつ観る者を試す内容になっていて、刺激的でもあった。誤解を恐れずに言ってしまえば、話の筋がきちんとしてないだとか内容が下品だとか派遣労働者を貶めているだとかいうのは、それぞれの一面を言い当てているかもしれないが、この演目の全体を表することにはならない。むしろ、そういうそれぞれの「批判」が、この芝居を観た者本人が気づいていない「意識」をあぶり出しているかも、とさえ思えるほど、今の世相の風刺になっている。そういう点で、クドカンのセンスはいいなあと思ったのだった。
「りびんぐでっど」とは生ける屍のこと。伊豆諸島は新島名産のくさや汁をかぶってよみがえった死人達が江戸へ上陸。生きている人間を食べて次々「ぞんび」にするのに手を焼いたお上に、同じく新島出身の半助が「死なない(既に死んでいる)」「飯がいらない」「おとなしくて手間のかからない」「安くこき使える」働き手として使うことを提案、「はけん」と名付けてその元締めになるというのが話のはじめで、それで次々起こる騒動を描いたものだ。
感心したのは、生ける屍=「そんび」を「はけん」=派遣労働者と見立てたこと。この点に嫌悪感を覚える人も多数いると思うが、これが無ければこの芝居はなりたたないぐらいに重要な点である。これがなければ、私は松竹とクドカンと勘三郎丈に「金返せ」といってしまう。
なぜそう思うか。
芝居は、新島でくさやを作っていて殺された新吉とその妻お葉、そしてお葉と幼なじみの半助のからみあいを軸に進んでいく。途中で、職人が「はけん」に仕事をとられ自棄になる場面とか、ラストで「はけん」を動員して作った永代橋が落ちるなど、現実をデフォルメしつつトレースしており、おさえるべきは押さえている印象を受ける。
お葉が半助のプロポーズを受けるところは、いったい何でそうなるの?と思ったが、カミさんから、歌舞伎には「実は」とつけて脈絡無くどんでん返しをする趣向はいくらでもあると解説され納得。話の筋を完璧にするより、世相を如何に切り取るかに重きを置いているのだなと解釈した。そんなこんなで最後まで騒々しく、でも楽しく、切なさを感じつつ見終わった。
この芝居に登場した「ぞんび≒はけん」とは、実は、現実の世界で、一応ながら安定した生活ができている層の人間が、不安定な生活・労働をしている人々に、無意識のうちに向けている視線をあらわにしたものではないかと思った。派遣労働者が大量に失業して大変なことになっているということは、ニュースなどで知識や情報として知っていたとしても、その派遣労働者という存在に、そうでない人々はどういう視線を向けていたのだろうか。その「視線のあり方」を、強烈に風刺しているのがこの芝居ではないだろうか。
その「問いかけ」を、意識的または無意識的に感じ取った観客が、いろんな反応を示していて、それらを読んでいくと、ますますそういう思いを強くする。
ラスト近く、染五郎扮する半助が、生きている人間の方が屍だと嘆く場面があり、さらにそれでも自分はお葉を一緒にいきようと、気のいい「はけん」たちを口先でだまして大川(隅田川)に飛び込ませ、落ちた永代橋の橋げたがわりにさせてお葉を助ける場面がある。これもまた、派遣労働者が置かれた状況を象徴的に演出しているし、何より「生きている人間の方が屍」という下りは、派遣労働を前提としないと回していけない社会とそこに属する人間のあり方を、強烈に問うている。
「観る者を試す」と思ったのは、そういう場面がさりげなく、しかし効果的に随所に織り込まれているからである。
芝居全体の完成度は、確かにまだまだのところもある。しかし、それを補ってあまりある「見立て」と「問題提起」がある。そういう意味で、非常に面白い芝居であった。ネットをざっと見た限り、この芝居の評判はあまりよろしくないが、それさえもこの芝居の一部なのだろうとさえ思う。
公演は12月26日までなので、もし興味があるのならぜひ観劇をおすすめする。一幕だけ観る幕見での観劇でよければ、1000円ちょっとで観られる。ただし立ち見の可能性大だが。ポイントは芝居の完成度もそうだが、観たあと自分が何を感じたか、である。
それにしても松竹は商売がうまい。今月の歌舞伎は、「操り三番叟」「野崎村」「身替座禅」という定番中の定番を、「大江戸りびんぐでっど」の前に並べた。おそらく会場の大半を埋めているクドカンファンをはじめ、歌舞伎をあまり知らない人たちも十分楽しめたと思う。これで歌舞伎の楽しさを広げようという狙いだろう。事実、勘太郎の「操り三番叟」はよく踊れていたし、「野崎村」も、苦しいながらも福助はよくがんばった。勘三郎と三津五郎、染五郎の「身替座禅」は演目自体も楽しいが、超ベテランの勘三郎と三津五郎の演技はこれまた観ていて楽しい。これでファンの裾野が増えれば松竹はしめたものだ。
しかしそれにしても歌舞伎は奥が深い。なんでもありだが、ちゃんと歌舞伎の世界に取り込んでいくのだから。
]]>立川の反戦ビラ配布に続き、ビラ配布が有罪となることが確定した。報道を見る限り、今回の判決は「入っちゃダメと書いてあるところに入ったから有罪」という、ほとんど形式的な判断しかなされていないようだ。まあ、配布されるものの内容に踏み込めば、より難しい判断を迫られるだろうから、それを回避したということなのだろう。しかし、それでも、このビラ配布によって誰にどれだけの実害が出たのかの認定が実質的になされないまま有罪とされるのは、やはりどう考えてもおかしいと言わざるを得ない。不安神経症的な世相をそのまま後追いしたような判断は、最高裁が、自らの存在意義に、自ら疑問符をつける形となった。
そんなどうしようもない判断をした4人の最高裁判事はさておき、この事件に対する反応は、民主主義をどれだけ理解/大事にしているかのバロメーターとなりうるだろう。こんな、裁判所などいらないと思わせるような形式的な判断を「その通り」と思っているなら、そういう人は、自らは民主主義の恩恵を受けているにもかかわらず、民主主義を理解していないし大事にしていないと判断して差し支えないだろう。こんな形式的な有罪判断と引き替えに、民主主義の重要な要素である意見表明の機会に制限を加えてよいという立場なのだから。
いまの世相のどうしようもない一面を見せつけられた思いだ。
]]>ことの始まりはインフルエンザに感染したこと。全身にだるさを感じたので、翌日病院に行って簡易検査を受けたらA型と診断され、即新型感染と判断されました。いまは簡易検査でA型が出たらまず100%新型なので、それ以上は検査しないですぐ薬を処方するんですね。で、たぶん世間の皆さんと同様5日分のタミフル(カプセル75)を処方されたわけですが、これが問題を大きくするきっかけになるとは夢にも思わず。
]]> 私のインフルエンザは、全身のだるさだけで、熱も38度ぐらいまでしかあがらず、咳も出ないので、医者も軽い症状ですみそうですねと言ったぐらいの代物でした。確かに、全身のだるさの出た日こそ38度ちょうどまで熱が出ましたが、病院に行ったときは36度代と平熱で、だるさもある程度取れていました。なのでそれはよかったと、もらったタミフルを飲んで速攻完全治癒だ!と意気込んでいたわけですが。 しかしその日以降、体のだるさはかえって増加し、全身のあちこちに痛みが出始めました。初めは、これが新型の本番か、と思ったのですが、相変わらず熱も咳も出ない。それでももらったタミフルは飲みきることと言い渡されていたので、律儀に1日2回飲んでいたのです。
しかし、そのうちにあまりにだるさがひどくなったので、タミフルを1回分残して服用をやめました。すると今度は手足のしびれがひどくなり、食事も出来なくなってしまいました。加えて咳も出始め、どんどんひどくなるばかり。直前の連休はほとんど動けずに寝て過ごしました。
ことここに至って、これはインフルではなくタミフルの副作用ではないかと思い、連休明けに再び病院に行ったところ、タミフルによる肝機能障害の疑いありと診断され、血液検査をしてもらいました。その結果、白血球が1万個/1mm3を超え、GOTとGPTがともに45を越える値になっていました。肝機能障害と何らかの感染症が疑われる値で、まず感染症をなんとかしましょうということで、抗生物質が処方されました。タミフルで弱った肝臓にまた薬をぶち込むという苦行ですが仕方ないですね。
結局、インフルエンザはほとんど軽症だったのに、タミフルでインフル退治以上に体(肝臓)を痛めつけてしまい、免疫が落ちたところで何らかの感染症にかかったという、何とも笑えない話でありました。いまは、点滴代わりにポカリスエットを飲んで、体力回復を図っているところです。
ということで、タミフルの「威力」に心身ともに参った1週間でした。めったにないでしょうし、対インフルエンザ薬としての効用を否定するつもりは毛頭ないけど、こういうやつもいるということで、みなさまもお気をつけて。
]]>やはり、なんというか、内部でいろんな「攻防」があったのだろうが、それは当時から断片的にではあるがそれなりに語られていたことであって、ほとんど目新しさを感じなかった。だが、自民党が政権維持のために数を確保することに血眼になっていったことが、どんどん国民の政治不信を強めていったことで、結局自ら崩壊過程にどんどんのめり込んでいったことはその通りだろう。政権につくことでしか、存在意義を示せなかった集団の末路はやはり哀れである。
これによって、その巨大なツケを回された国民生活もまた疲弊していき、少なくない国民が生活の基盤を崩されていった。仕上げは、小泉政権の新自由主義路線。まともに働けない暮らせない人々がどんどん増えていった時代でもある。
結局、社会党がぶっ壊れ、次いで自民党もぶっ壊された。ある意味小沢氏の希望通り、ぬるま湯の55年体制は見事に破壊された。しかし、そのあとに残った/現れたものは?
改めて書くが、この過程を経て、旧弊たる55年体制は打破されたが、それで本当に普通の国民のための社会になってきたのだろうか。今日も、番組を見ている限りでは皆目わからなかった。明日は第3回、この問いに対する答えは見えてくるのだろうか。
]]> 長く続いた55年体制は壊さなければならない。そう強調する小沢一郎氏。そのために仕掛けた政権奪取劇が93年の細川連立政権であることが示される。
自民党を割って出て、いろんな仕掛けをして連立政権発足にこぎ着けたあと、55年体制を壊すべく次から次へと手を繰り出す小沢氏。小選挙区導入(政治改革法案)では、与党内の造反でいったん否決されたものの、野党自民党と組んで成立させる。この頃から社会党やさきがけとの関係が怪しくなるが、構わず消費税に変わる新間接税(国民福祉税)7%を提案。事前に相談されなかった社会党やさきがけの離脱が決定的になる。佐川急便スキャンダルで細川内閣が崩壊したあと、羽田内閣を挟んで政権維持の暗闘がクライマックスへ。社会党とさきがけが離脱した連立政権維持のため、自民党の分裂を仕掛ける小沢氏。しかし失敗。そして、政権復帰へ執念を燃やす自民党は連立を離脱した社会党・さきがけと組み、村山社会党委員長を首相に担ぎ上げて政権復帰を果たす。
いずれにしても、政権交代で民主党が進めようとしている政策によって、どんな社会に変わっていくのか。そのヒントが小沢氏にあることだけは確かなようだ。
]]>かねてより、日本は空港を作りすぎだと思っていたし、しかも都市部から妙に離れたところに作られているから不便で、よほどのことがない限り、国内の移動には飛行機を使ってこなかった。いくら飛行機が速いと言っても、目的地までの所要時間にあまり差がなければ、鉄道かバスで十分だからだ。
日航の経営不振の問題は、もちろん当の日航自身の経営のあり方に由来するところが多いが、加えてそういう日航によってたかって、空港建造という公共事業を乱発し、空港完成後も無理矢理日航に就航させて高い着陸料をふんだくるという構図を作り上げてきた国や行政や自民党との癒着の体制にもある。このことは、古くから指摘されてきた問題でもあり、政権交代がなったいまこそ、それらの諸問題を改める絶好の機会でもあるはずだが、そういう過去の経緯に踏み込まないところが、今次民主党政権の半端なところと言わざるを得ない。
ハブ空港云々以前に、手をつけるべき問題があると思うのだが。