ナチスドイツが「健康」を重視していたことは、少し歴史を調べればわかることだ。ドイツ民族の優秀さを示すために、「健康」を極限まで追求した、とも言われる。1936年のベルリンオリンピックは、その格好の舞台でもあっただろうと想像する。
スポーツに取り組む人の姿に強い魅力を感じることに、身に覚えがある人は少なくなかろう。スポーツが本来的に持っている「健全さ」「真摯さ」という特性は、スポーツをする人・観る人の気持ちを捉えて離さない。それはそれでいい。
だが、スポーツの持つ健全さについて、それが「そうであらねばならないこと」に転化すると、そこからファシズムへの道が始まってしまう。
スポーツに代表される「健全さ」に魅力を感じることと、「健全であること」を他者に求めることには大きく違う。前者は個々人の感情だが、後者は他者への同調圧力となり、いずれそこからの逸脱を許さなくなる。
ファシズムとは、際限なく他者に同調することを求め続けることにある、と考える。その結末は、明治維新から1945年に至る大日本帝国の足跡をたどれば自明であろう。それは国民に対し、国体に際限なく同調を求め続けた結果の国家体制の破綻であった。ただし、それは国民が求めた面も多分にあるが。
いままた、先行きの見えない不安に直面し、何かに頼りたい気分が蔓延しているこの国において、スポーツが示す「健全さ」「真摯さ」が何をもたらすか。いま一度立ち止まって考える必要があるのではないかと思う。
2020年東京オリンピックが、1936年のベルリンの再来にならないよう。
歌舞伎好きのカミさんに連れられて、年数回歌舞伎を観るようになって数年。台詞や話の筋やらがさっぱりわからず、筋書きから目が離せずまともに舞台を観られなかった状態からようやく脱却し、スムーズに歌舞伎を楽しめるようになってきた。近頃は演目を観て、今回は筋書きなしでOKかなと判断できるようになった。
今月歌舞伎座にかかっている十二月大歌舞伎の演目も、「操り三番叟」「野崎村」「身替座禅」という定番中の定番で、はじめは筋書きなしで行けるかなと思いそのまま席に直行したが、ふと考えると一本全く筋の読めない新作があることに気づき、勘太郎の「操り三番叟」が終わったのを見計らって、あわてて筋書きを買いに走った。
筋書きの読めない新作、それが今いろいろな意味で話題の宮藤官九郎作「大江戸りびんぐでっど」だった。
結論から書く。クドカンの「大江戸りびんぐでっど」は面白かった。これも「ちゃんと歌舞伎」であると思ったし、かつ観る者を試す内容になっていて、刺激的でもあった。誤解を恐れずに言ってしまえば、話の筋がきちんとしてないだとか内容が下品だとか派遣労働者を貶めているだとかいうのは、それぞれの一面を言い当てているかもしれないが、この演目の全体を表することにはならない。むしろ、そういうそれぞれの「批判」が、この芝居を観た者本人が気づいていない「意識」をあぶり出しているかも、とさえ思えるほど、今の世相の風刺になっている。そういう点で、クドカンのセンスはいいなあと思ったのだった。
「りびんぐでっど」とは生ける屍のこと。伊豆諸島は新島名産のくさや汁をかぶってよみがえった死人達が江戸へ上陸。生きている人間を食べて次々「ぞんび」にするのに手を焼いたお上に、同じく新島出身の半助が「死なない(既に死んでいる)」「飯がいらない」「おとなしくて手間のかからない」「安くこき使える」働き手として使うことを提案、「はけん」と名付けてその元締めになるというのが話のはじめで、それで次々起こる騒動を描いたものだ。
感心したのは、生ける屍=「そんび」を「はけん」=派遣労働者と見立てたこと。この点に嫌悪感を覚える人も多数いると思うが、これが無ければこの芝居はなりたたないぐらいに重要な点である。これがなければ、私は松竹とクドカンと勘三郎丈に「金返せ」といってしまう。
なぜそう思うか。