スポーツとファシズムの距離 - 2020年東京オリンピック決定に際して

 ナチスドイツが「健康」を重視していたことは、少し歴史を調べればわかることだ。ドイツ民族の優秀さを示すために、「健康」を極限まで追求した、とも言われる。1936年のベルリンオリンピックは、その格好の舞台でもあっただろうと想像する。

 スポーツに取り組む人の姿に強い魅力を感じることに、身に覚えがある人は少なくなかろう。スポーツが本来的に持っている「健全さ」「真摯さ」という特性は、スポーツをする人・観る人の気持ちを捉えて離さない。それはそれでいい。
 だが、スポーツの持つ健全さについて、それが「そうであらねばならないこと」に転化すると、そこからファシズムへの道が始まってしまう。
 スポーツに代表される「健全さ」に魅力を感じることと、「健全であること」を他者に求めることには大きく違う。前者は個々人の感情だが、後者は他者への同調圧力となり、いずれそこからの逸脱を許さなくなる。

 ファシズムとは、際限なく他者に同調することを求め続けることにある、と考える。その結末は、明治維新から1945年に至る大日本帝国の足跡をたどれば自明であろう。それは国民に対し、国体に際限なく同調を求め続けた結果の国家体制の破綻であった。ただし、それは国民が求めた面も多分にあるが。
 いままた、先行きの見えない不安に直面し、何かに頼りたい気分が蔓延しているこの国において、スポーツが示す「健全さ」「真摯さ」が何をもたらすか。いま一度立ち止まって考える必要があるのではないかと思う。

 2020年東京オリンピックが、1936年のベルリンの再来にならないよう。

とりあえず生存証明

 昨日3月11日に発生した東北地方太平洋岸大地震。夜が明けるにつれ被害の規模がだんだん明らかになってきている。相当な被害になっている模様。95年の阪神・淡路大震災を上回りそうな印象だ。被害に遭われた方のお見舞いと、なくなられた方のご冥福を祈念します。

 個人的には、たまたま出張で大阪にいたので、家族の無事はメールと電話で確認したが、東京の状況がまだよくわからない。東京にいるカミさんも友人知人も「人生で最大規模」と言っていた。東京でそうなのだから、東北地方の現地はどれだけひどいのか、想像もつかない。
 地震発生時は、高層ビルの上層階にいた。すごくゆっくりした揺れがだんだん強まってきて、室内のモノが部屋を走り始めた。1回の揺り返しが10秒ぐらいかかる。ビルのあちこちからギシギシと音がした。これが長周期の揺れか、と思いながら、踊り始めた可動式パーティションを動かないよう押さえていた。フェリーで大波に揺られている感じ。気持ち悪かった。

 今日これから東京に戻る予定。東京はまだ鉄道が混乱している模様。東京に着いたあと家までたどり着けるか。ま、なんとかするしかない。

いったい何に期待をするのやら

 民主党代表選なぞ全く興味が持てない今日この頃だが、メディアもネットも大騒ぎとあって、いやでも目に入ってくる。鈴木宗男氏の実刑確定で、さらにその傾向が加速されているようだ。
 正直なところ、小沢氏に何を期待しているのかよく分からない。言っていることは、昨年の総選挙の時と基本的に同じで、今のところそのあたりは一貫性があり、筋が通っているように見える。だが、本当にそれが実行されるのか、実に心許ない。今の政治を転換するために、踏み込むべきところに踏み込めるのか。ちまたで言われている官僚との対決、政治主導の実現ではなく、主張を実現するために避けて通れないはずのところに。そのあたりが明確に示されていないところが、私にとってどうにも信用できないポイントになっている。
 まあ、財政再建を最優先にして、政策転換のために本来やるべき事を見失った菅政権にも何も期待できないが、だからといって小沢氏に何かを期待する気にはまるでなれない。
(ついでにいうと、いつの間にか正義のヒーローみたいになっている鈴木宗男氏に、何かを期待する気はまるでない。逮捕されたあと、権力を行使できなくなってからは、なんだか振る舞いが変わってきたようでもあるが、だからといって「国策操作の被害者」みたいな言い分を額面通りには受け取れない。)

 でも、この民主党代表選はかえっていい機会かも知れない。小沢氏が総理になることで、強いリーダーシップによりかかるようなメンタリティが崩れ去る時期が早まる可能性が高まるのだから。
 誰がリーダーシップを持っているかなどという、どこまでも強い誰かに依存するような不毛な振る舞いがなくなって、ひとりひとりが自らどう行動するか、そしてそこから始まる新しい運動の可能性が高まるのだから。

 ということで、最近のこれらの騒動の主たちがこれからどう振る舞っていくかを、じっくり見極めていきたいと思っている。

『やっぱり自民党がいいんだ』とは全く思わないのだけど

本土メディアの論調に違和感を抱く沖縄の声 from 永田町異聞

 鳩山政権の功績としては、これまで表に出てこなかった事柄をある程度見えるところへ引き出してきたところにある。沖縄・普天間基地問題がその最たるもので、これまで全くといっていいほど出てこなかったことが、首相をはじめ政府関係者から直接語られたことがあっただろうかと思う。

 確かに、昨年の衆議院選の「県外、国外」公約から5月の「辺野古」案回帰まで、その経過を見てそのあまりのグダグダぶりに「こりゃダメだ」と思うことがしばしばあった。
 「辺野古」案への回帰それ自体は、自ら公約として語ったことを、ほぼ反故にするという点で、全く評価できない。ただ、米軍基地問題をこの国全体の問題として否応なくクローズアップしたことは、歴代の自民党政権にはなかった功績だと思う。

 だから、私は鳩山政権はダメだとは思うが、現時点で退陣をもとめるつもりはない。上に上げた功績については、歴代自民党政権に比べればはるかにマシな成果だからだ。この点だけみても、自民党(及び公明党やその類似政党)への政権復帰は真っ平ごめんである。

「ぞんび」=「はけん」のリアリズム 観る者を試す「大江戸りびんぐでっど」

 歌舞伎好きのカミさんに連れられて、年数回歌舞伎を観るようになって数年。台詞や話の筋やらがさっぱりわからず、筋書きから目が離せずまともに舞台を観られなかった状態からようやく脱却し、スムーズに歌舞伎を楽しめるようになってきた。近頃は演目を観て、今回は筋書きなしでOKかなと判断できるようになった。
 今月歌舞伎座にかかっている十二月大歌舞伎の演目も、「操り三番叟」「野崎村」「身替座禅」という定番中の定番で、はじめは筋書きなしで行けるかなと思いそのまま席に直行したが、ふと考えると一本全く筋の読めない新作があることに気づき、勘太郎の「操り三番叟」が終わったのを見計らって、あわてて筋書きを買いに走った。
 筋書きの読めない新作、それが今いろいろな意味で話題の宮藤官九郎作「大江戸りびんぐでっど」だった。

 結論から書く。クドカンの「大江戸りびんぐでっど」は面白かった。これも「ちゃんと歌舞伎」であると思ったし、かつ観る者を試す内容になっていて、刺激的でもあった。誤解を恐れずに言ってしまえば、話の筋がきちんとしてないだとか内容が下品だとか派遣労働者を貶めているだとかいうのは、それぞれの一面を言い当てているかもしれないが、この演目の全体を表することにはならない。むしろ、そういうそれぞれの「批判」が、この芝居を観た者本人が気づいていない「意識」をあぶり出しているかも、とさえ思えるほど、今の世相の風刺になっている。そういう点で、クドカンのセンスはいいなあと思ったのだった。

 「りびんぐでっど」とは生ける屍のこと。伊豆諸島は新島名産のくさや汁をかぶってよみがえった死人達が江戸へ上陸。生きている人間を食べて次々「ぞんび」にするのに手を焼いたお上に、同じく新島出身の半助が「死なない(既に死んでいる)」「飯がいらない」「おとなしくて手間のかからない」「安くこき使える」働き手として使うことを提案、「はけん」と名付けてその元締めになるというのが話のはじめで、それで次々起こる騒動を描いたものだ。

 感心したのは、生ける屍=「そんび」を「はけん」=派遣労働者と見立てたこと。この点に嫌悪感を覚える人も多数いると思うが、これが無ければこの芝居はなりたたないぐらいに重要な点である。これがなければ、私は松竹とクドカンと勘三郎丈に「金返せ」といってしまう。
 なぜそう思うか。

NHKスペシャル「永田町・権力の興亡」(2) - 本日も疑問解消されず

 昨日に引き続き、斜め視聴にて鑑賞。NHKスペシャル「証言ドキュメント 永田町・権力の興亡 第2回」
 政権復帰した自民党が、小沢氏を使って公明党と連立を組み、政権維持に全力を注ぐ過程が紹介されたが・・・。

 やはり、なんというか、内部でいろんな「攻防」があったのだろうが、それは当時から断片的にではあるがそれなりに語られていたことであって、ほとんど目新しさを感じなかった。だが、自民党が政権維持のために数を確保することに血眼になっていったことが、どんどん国民の政治不信を強めていったことで、結局自ら崩壊過程にどんどんのめり込んでいったことはその通りだろう。政権につくことでしか、存在意義を示せなかった集団の末路はやはり哀れである。

 これによって、その巨大なツケを回された国民生活もまた疲弊していき、少なくない国民が生活の基盤を崩されていった。仕上げは、小泉政権の新自由主義路線。まともに働けない暮らせない人々がどんどん増えていった時代でもある。
 結局、社会党がぶっ壊れ、次いで自民党もぶっ壊された。ある意味小沢氏の希望通り、ぬるま湯の55年体制は見事に破壊された。しかし、そのあとに残った/現れたものは?

 改めて書くが、この過程を経て、旧弊たる55年体制は打破されたが、それで本当に普通の国民のための社会になってきたのだろうか。今日も、番組を見ている限りでは皆目わからなかった。明日は第3回、この問いに対する答えは見えてくるのだろうか。

NHKスペシャル「永田町・権力の興亡」(1) - いったい何のための「政治改革」か?

 斜め読みならぬ「斜め視聴」(ただ家事をしながらですが)で見た今日(11/1)のNHKスペシャル「証言ドキュメント 永田町・権力の興亡 第1回」。おもしろいとは思ったが、一番シンプルな疑問は最後まで残った。曰く「いったい何のための“政権交代”、“政治改革”か」。

 長く続いた55年体制は壊さなければならない。そう強調する小沢一郎氏。そのために仕掛けた政権奪取劇が93年の細川連立政権であることが示される。
 自民党を割って出て、いろんな仕掛けをして連立政権発足にこぎ着けたあと、55年体制を壊すべく次から次へと手を繰り出す小沢氏。小選挙区導入(政治改革法案)では、与党内の造反でいったん否決されたものの、野党自民党と組んで成立させる。この頃から社会党やさきがけとの関係が怪しくなるが、構わず消費税に変わる新間接税(国民福祉税)7%を提案。事前に相談されなかった社会党やさきがけの離脱が決定的になる。佐川急便スキャンダルで細川内閣が崩壊したあと、羽田内閣を挟んで政権維持の暗闘がクライマックスへ。社会党とさきがけが離脱した連立政権維持のため、自民党の分裂を仕掛ける小沢氏。しかし失敗。そして、政権復帰へ執念を燃やす自民党は連立を離脱した社会党・さきがけと組み、村山社会党委員長を首相に担ぎ上げて政権復帰を果たす。

日本の核武装ー不安のある状態に耐えられず、それを埋めるために国家を持ち出し核武装を言うのは、周囲も自分をも不幸にするだけ

 終戦記念日に、核をテーマにNHKで放映された討論番組「日本の、これから」を見た感想を述べたエントリーに、コメントをいただいた。そのコメントへの返答として、このエントリーを起こす。

 私が書いたそのエントリーは、核廃絶を実現するには、その意志を表明し、武力に寄らない行動を起こすところからしか始まらないという趣旨だ。それについて「既に手遅れだ」というコメントをいただいた。この方は、自身の主張を上げた自らのブログのリンクも張っていただいたので、それも読ませていただいた。この方の主張は、北朝鮮のみならず世界の主要国、中立国さえ核に手を染めている、日本も核武装しないと、そういう世界の諸国と渡り合えないという内容だと理解した。

 基本的に、私とこの方との意見の違いは、現状の世界情勢をどう認識しているかの差から始まっていると感じた。とはいえ、世界の諸国が何らかの形で核に関わっているという認識は私も持っている。意図的ではないにせよ、結果として日本だって核に関わっている可能性があるというのが私の認識だ。その点については違和感はない。

 しかし、だから「既に手遅れだ」というのがよく分からない。何を根拠にそう判断されているのかが分からない。そのあたりをもっと説明してくれると助かるのだが。このことについてよく「手遅れだ」という人は他にもいるが、何を根拠にそう言っているのか、いくら聞いてもはっきりしないので。

派遣業界を育てたご公儀が、派遣業界の親玉になった

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 ここまであからさまに「天下り」されると、なんと言いますか、心底あきれてしまいます。
 生活できない賃金で働かざるを得ない人々を大量に生み出すことにつながった2004年の改正労働者派遣法の成立に深く関わった竹中平蔵氏。この法改正で実施された製造業への派遣解禁により、派遣業界が大いに活性化したことは周知の通り。
 その竹中氏が、よりによって派遣業界トップクラスのパソナグループの会長に納まるという。しかも就任は総選挙の結果が出る直前の8月26日だそうです。

 ネタなのか本気なのか、それとも開き直りなのかと、つい余計な詮索をしてしまうぐらいの「天下り」劇。ただの天下りでないのは、東京新聞9月8日付「こちら特報部 ニュースの追跡」(画像)を参照いただければ一目瞭然です。一言で言えば、権力を使って口入れ屋(手配屋?)を大きく育て、頃合いを見計らってそこの親玉に収まり「果実の収穫」に入るということになりますね。自分の資金で投資したならばいざ知らず、閣僚として育成に努めた産業で、自らの懐は痛めずにもうけようというのだから、恥知らずも良いところでしょう。