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東京都知事選:「水晶玉の使い手」(=都知事)は「水晶玉を使わない人」に

 東京都知事選もいよいよ投票日目前となりました。この間、ネットやメディアでいろんな議論が進んで、少なくない人々の関心の高さが伺えました。情勢は、まだまだ石原氏優勢のようですが、たとえばその石原氏がとってつけたように築地市場の豊洲移転の見直しを口にしたりとか、浅野氏がオリンピックの招致中止を明言したりと、主な候補者の政策にも変化が見られてきました。その変化の方向は、吉田候補が掲げる政策の方向に近づいてきたと思っています。十分不十分はともかく、政策を掲げて訴えあうことで、各候補者が掲げる政策に変化を生んできたこと自体は歓迎すべきことと思います。

 しかし、毎度のことながらやはり時間が足りない。法定ビラに候補者名さえ書けないようなトンデモ公職選挙法(公選法)のおかげで、議論する場が奪われていることを非常に痛感します。候補者名はむやみに出せない・言えない、戸別訪問はできない、ビラ配布もとっ捕まらないかビクビクしなきゃいけない、ネットにゃ支持を訴えることも書けない、おおっぴらに話していいのは電話だけ・・・・こんなベカラズ選挙でいったいどうしろというのか。毎度毎度頭にくることばかりです。

 ところで、石原氏が著名人8名を登場させたマニフェストを出したと聞いて、こりゃ相当あせっているなとと感じました。しかも、ちょっとばかり反省するようなそぶりを見せておいて、でもやっぱり・・・という形です。そうやって人気のある著名人を並べて関心を引くという手法は、マーケティングの常道でもあると同時にファシストの手法でもあるからです。そういう手法を改めて使わなければいけないほど追い込まれているのか、と見えました。
 批判の強い築地市場の豊洲移転問題でも、石原氏は「私の前の代に大筋決まっていたこと」と言いましたが、それが偽りであることが暴露されてしまったり(築地市場移転「私の前の代に決定」石原都知事発言は偽り 共産党都議団入手文書で判明 from しんぶん赤旗 2007.3.30)、終盤には街頭演説で聴衆の野次に「黙ってろ!」といってしまった(慎太郎知事 ヤジにブチッ「うるさい、黙ってろ!」…8日都知事選 from スポーツ報知 2007.4.5)とか、ずいぶんとバタバタしてきている。明らかに守勢に回っているように見えます。

東京都知事選:石原氏への「批判のしにくさ」と「社会の成熟」(下)

 これで最後です。

 さて、石原氏はよく天才的なポピュリストだと言われています。昔から、大衆の欲望を救い上げるのに天才的な才能を持っている、という評価です。どうしてそうなのだろう、と疑問に思っていましたが、いま思うのは、石原氏自信が甘えを求める願望を持っているからこそ、大衆の「甘えを求める願望」に敏感なのではないかということです。つまり、甘えさせてあげられるような主張なり政策なりを、適切なターゲットに適切に提供できるということです。

 今回取り上げている大塚氏の本書(「サブカルチャー文学論」(朝日文庫))の中で、石原氏は昔からタフなネゴシエーターとしての能力も持っていると書かれています。かつて「太陽の季節」がヒットして弟の石原裕次郎を主演にした映画が大ヒットしたあと、ある映画会社が次の小説の映画化権を買いたいと持ちかけてきたことがあるそうです。そのとき、「次の小説」は題名もプロットもまだ何も決めてなかったのに、弟の主演を条件に映画化権を売ることを決めてしまう。決めてしまってから、きわめて短時間でその小説を書き上げたということをやったらしいのです(石原氏の著書「弟」にこのような記述があるようです)。ありもしない小説の映画化権を売るというネゴシエーターぶりには、皮肉なしに親近感を覚えたと大塚氏は書いています。これは今まさに同じような仕事をしている立場の者としての思いとしていますが、そういう、いわゆる世間の「風」を読む能力に長けていることも石原氏の特徴なのでしょう。
 大衆が全体としていまどんなことを求めているかに敏感で、かつそれを難なくビジネスなり政治なりに結びつける能力。多くの人が望むものを提供でき、それをビジネスにしていこうという人たちも巻き込めていけるネゴシエーターぶり。これが石原氏の特徴といえるでしょう。

 こういう人を相手に政治戦を闘うのが非常に大変なことは、容易に想像が付くことと思います。なにせ多数の大衆の欲望を受け止めて政治にしていくわけですから。欲望に直結した行動ほど強いものはない。ましてや現状に強い不満なり不安を持っている人々の欲求はただでさえ強いのですから。
 「政治」のレベルにはその国の「民度」がある程度反映されるといいます。石原氏がトップにいる東京の「政治」は、それを、つまり「社会の成熟」度を一番わかりやすく示しているのかもしれません。

東京都知事選:石原氏への「批判のしにくさ」と「社会の成熟」(中)

 さて続きです。

 前のエントリーで取り上げた大塚英志氏による「サブカルチャー文学論」(朝日文庫)をヒントにした石原氏の批判の仕方の考察です。

 前回の終わりでは、どうも石原氏には、同氏の小説の主人公たちと同様に、内面を持つ他者と向き合うことを回避しているのではないか、と書きました。

 そう思える場面を、メディアを通じてですが何度か見たことがあります。ひとつは、何年か前に見た都議会中継で、どのような中身かはすっかり忘れていますが、共産党議員の質問に対し「だからお前たちはダメなんだ」というような、必要以上に感情的な「反論」をしてたことがありました。程度の差はあれ、自分の意に沿わない相手に対しては、必要以上に罵倒する言葉を使うのが石原氏の特徴でもありますが、そのときは、普段より特別に反応していたと感じられました。

東京都知事選:石原氏への「批判のしにくさ」と「社会の成熟」(上)

 のっけから言い訳で申し訳ありませんが、地域労組の平役員をしていることもあって、3月14日の賃上げ集中回答日以降、春闘関連の行動が増えてきて、まとまったエントリーを上げる時間が少なくなってしまっています。東京都知事選のことや、同時並行で進む国民投票法案を巡ることなど、書きたいことはまだまだあるのですが、ここ数日はなかなかまとまって書く時間が取れそうもありません。

 なので、とりあえずですが、いま考えていることを。
 この都知事選では石原氏をスルーして浅野vs吉田で政策論争しよう!など騒いでおりますが、だとしてもやはり石原氏が都知事としてやってきたことに触れないわけにもいかないとも一方でずっと思っていて、批判的に取り上げるべくこのところ思案しておりました。
 石原氏のいろいろな暴言や都政私物化、そしてなにより教育行政に顕著に見られる強制的な強権発動等、批判すべきことはたくさんありますし、すでに多くの方が批判を加えております。その努力のおかげで、石原都政のひどさ・おかしさが十分浮き彫りになっていると思っています。

 でもその一方で、ずっと感じていたのは石原氏への「批判のしにくさ」でした。上であげたように批判されるべき出来事に事欠かない石原氏なのに、一方でその批判がなかなか石原氏のダメージにならない、それどころか、さすがに減ったとはいえ世論調査でまだ5割を超える支持率を維持している。ある程度予想してたとはいえ、やはりこの事実には驚かされます。

 でも、その「謎」に手がかりを与えてくれる本がありました。まんが原作者の大塚英志氏による「サブカルチャー文学論」(朝日文庫)がそれです。

大塚英志氏の話を聞いてきた=「憲法力」をつけるということ、「他者」と関わるための「ことば」について

 昨日、というかもう一昨日になるが、大塚英志氏の講演会に行ってきた。出版関係のフリーランサーで作る個人加盟組合の出版ネッツ(ユニオン出版ネットワーク。出版労連所属)が開いた2月の寄り合いに、大塚氏が講師として招かれたもの。テーマは「[憲法力]をつける。―政治のことばを取り戻すために―」。
 正念場を迎える日本国憲法を巡る情勢を確かめるつもりで参加したのだが、今の社会状況に対してほとんど無意識的に感じていたいくつかの思いを、具体的に認識させてもらった点で、非常に有意義な話だった。