プロ野球の労使関係に見る、自民党流憲法「改正」後の日本社会の姿

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 プロ野球を憲法問題と結びつけて語るなんて、随分ぶっ飛んだネタ振ってると思われるかもしれないが、常々考えている日本国憲法を巡る問題に、プロ野球の労使関係の現実がどうしてもカブって見えてくる(あくまで個人的にだが)のだがら仕方ない。長年、阪神タイガースファンを続けている身としても、プロ野球のことはどうしても感心が離れない。無謀を承知で憲法とプロ野球の在り方と今後を考察してみる。

 日本国憲法は、国民に主権が存することを明記してある民主主義の憲法だ。つまり、この憲法は、主権者(国民)が国家(政府)に対しその行為を規定する法規である。国家(政府)は、その憲法の枠内でしか行動できないというのが基本的なスタイルとなる。
 自民党の憲法改正プロジェクトチームが、今年6月4日に発表した自民党憲法改正草案(2005年11月作成予定)に向けての「論点整理(案)」憲法会議(憲法改悪阻止連絡会議)のサイトを参照)を読むと、要するに自民党は、国民が国家にしばりをかける内容である現行の憲法を、国家が国民にしばりをかける内容に変質させようと考えているとしか思えない。詳しくは触れないが、たとえば「憲法前文に盛り込むべき内容」という項目に、「社会を構成する重要な単位である家族」や「利己主義を排し、『社会連帯、共助』の観点」、「国を守り、育て、次世代に受け継ぐ、という意味での『継続性』」などを挙げてあるのを見ると、家族のあり方やら利己主義の否定やら国を守ることやらをいちいち国民に指南・命令したいのか?と勘繰りたくなる。「『基本的人権の尊重』については行き過ぎた利己主義的風潮を戒める必要がある」などと言うに至っては、基本的人権は制限してもよいと言っているのと同じという風にしか聞こえないのは、アマノジャクすぎる見方か? だいたい「行きすぎた」というのは誰が何をもって判断するのか? 基本的人権というのは、長い時間を経て人類が積み重ねてきた経験から導き出された、人間として生きるにあたって不可欠な権利であって、だからこそ万難を排して尊重されなければならないとされているものだ(少なくとも近代民主主義を標榜する国においては)。それを「行きすぎた利己的風潮」があるからといって「戒める必要がある」などというのは、基本的人権が尊重されなければならない理由を理解していないとしかいいようがない。

 憲法9条をめぐる問題についてもそうだ。現行憲法は国の交戦権を否定・禁止し、その実現のために軍備を持つことを禁止している。これはつまり、戦争に勝利するという国家目標を持たないことを意味する。戦争は国家間(国家連合間も含む)の総力をあげた戦いであり、これに臨むには国家の持てるだけの資源を総動員する必要がある。戦争に勝利するという国家目標があるばあい、その妨げとなりうるものを、国家(政府)は全て排除しようとする。その対象には当然のことながら基本的人権も入ってくる。主権者が基本的人権を掲げて戦争に協力しないなどという行為に出れば、「戦争に勝利」という国家目標の達成の妨げになるからだ。つまり、9条を改定して国の交戦権を認め、軍備の保有を認めれば、いつでも基本的人権は制限されうる状態に置かれることになる。
 さらに問題なのは、個別的自衛権だけでなく集団的自衛権も認めるべきということが言われていることである。集団的自衛権とは、同盟・連合関係にある国家が戦争状態になったばあい、物理的に自国が攻められていなくても、自国が攻められたと見なして「自衛戦争」を行える権利のことである。例えば、遠い外国にある日本や同盟国の施設が攻撃された場合、「わが国の権益に対する攻撃」とみなして自国軍を出動させることが出来る。自分たちは直接関係していないのに、同盟関係のある他国が戦争状態になった(というか戦争をおっぱじめた)ばっかりに、戦争に参加せざるをえなくなる集団的自衛権を憲法に加えようということが、如何に主権者=自分たちの権利制限につながっていくか、想像しただけで恐ろしくなる。

 かつて「自国の権益を守る」といって、中国や東南アジア、果ては太平洋で戦争を始めた日本は、ボロボロに叩きのめされて大敗した。その時国民は、「戦争に勝つ」という国家目標のために、ささやかながら持っていた「権利」さえ国家によって一方的に制限され、戦争に動員されて悲惨な結末を迎えることになった。再び「戦争」が国家目標のひとつとして組み入れられたらどんなことになるか。想像力を働かせて考えてみるといい。
 つまり自民党は、いま日本国民がもっている権利を、さまざまな理屈をつけて為政者(国家)が都合のいいように制限できるようにしたいのだ、と私は解釈している。

 そしてその状態は、まさにこれまでのプロ野球が見事に体現していると思っている。それがはっきり出たのが、球団合併を巡るプロ野球のオーナー側の振る舞いである。
 日本のプロ野球で憲法にあたるのがいわゆる野球協約であろう。その野球協約に則ってオーナー側は球団合併をすすめあわよくばリーグ再編まで持っていこうとしていた。しかしその行為に選手会やファンから異議申し立てが上がる。その時のオーナー側の態度はどうだったか。渡邉恒雄氏が「たかが選手」と言い放った行為に象徴されるように、一切相手にしないという態度であった。オーナー側(いわば野球界の『為政者』)が、選手(野球界の『国民』)の『権利』を一方的に変更・制限を加えようとしたと言えるだろう。
 憲法における国民と国家の関係には、単純にはあてはまらない点も多いが、最近のオーナー側の振る舞いに、国家が国民をしばる憲法をもった国の政府の振る舞いをどうしても感じてしまうのだ。

 国民の要求など聞かず、国家がみずから掲げた目標の達成のために、国民の権利を制限し動員しようとする社会。自民党だけでなく民主党も、そういう方向で憲法の改正を打ち出している。公明党は、権力にいつづけたいがために最後は自民党に同調していくだろう。
 現行憲法に何らかの不備があると考えている人々は多いだろう。しかしそれは、戦後長期にわたって政権を握りつづけた自民党を代表とする保守政党政権と、日本を自国の国際戦略に都合のいいように使うアメリカ政府が、憲法の各条項とは反対の事をする振る舞いを続け、その到達点としての現代社会と、憲法の理念との大きなギャップが「憲法の不備」に見えるだけではないのだろうか。60年近くも憲法とは反対の事をし続けてくれば、そんな風に見えるのも仕方ないかもしれない。

 しかしだからといって、自民党がいうような憲法「改正」では、その先に出てくるのは「ナベツネ氏が支配するプロ野球界」のような社会でしかない、と思うのは考えすぎだろうか。

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