解散総選挙6:2005年日本・衆議院総選挙で考えた「民主主義」の有効性

 労働組合の役員なんぞをやっていると、実にいろいろな話を聞くことになります。先日会社を定年退職した、長らく組合の組織拡大担当だった方には、いくつもの労働相談や労働争議にかかわってきた経験談を聞かせてもらっていました。解雇や待遇改善について実にいろいろな人が相談に飛び込んでくるのですが、じゃあってんで一緒になって会社と交渉して、満額とは行かずとも一定の成果が出て区切りがつくと、とたんに組合に顔を出さなくなる人は少なくないそうです。組合に相談に来てよかったとか、組合のありがたさがわかった、とは言ってくれるのですが、だからといって引き続き組合に入って活動を、という人は本当に少ないといいます。組織拡大担当なんて骨折り損のくたびれ儲けみたいなものだそうです。
 それでも、そういう経験を通じて、理不尽なこと、納得できないことにはきちんと声をあげるという経験をしていれば、民主主義というものを身近なこととして考えられるようになるだろう、という期待もあるそうです。まだ少ないけど、争議などで世話した人が組合の活動に参加してくれることもある、だから組織拡大をやってこられたとと言っていました。

 9・11衆院総選挙の結果をうけて、とっさに浮かんだのは昨年暮のウクライナ大統領選のことでした。この件についてエントリーを書いたこともあったかもしれませんが、彼の国の国民の動き方と、この国の国民の動き方の『落差』に、少なからず驚いたのでした。

 そこで書いたのは、たとえ動員されたとしても、動員される国民の側が民主主義についての知識を持っている必要がある。いろいろな仕掛けによって動員されたとしても、それが繰り返されていくうちに民主主義の「経験値」は上がる可能性があるのではないか、ということでした。
 もちろん、自動的に「経験値」が上がっていくことなど無いでしょう。動員されたゆえの結果について、どうしてそうなったのかという検証なしには、経験が経験として人々に定着しないし、共有されないだろうからです。(その「経験」も、個別の経験だけでなく、過去の人類が経験したこと=いわゆる歴史上の「経験」も含まれます)

 今回の選挙結果があまりに極端に出たことによって、当の有権者の側から、それについて不安を感じる、という声が出ていることを少なくないメディアが伝えていましたが、どこに投票したかに関らず、いろいろと考えさせられる結果なのでしょう。
 メディアを通じてわかりやすいキャッチフレーズやシンボルを使った宣伝戦が仕掛けられ、それに乗っかって「与党支持」という選択をした人(全員がそうだとは言いません)が、全投票の5割(与党の得票率)に達したのは、「民主主義」を標榜する国の選挙としては考え物の結果だと思います。この点では、ウクライナの国民のほうが遥かに理性的に感じます。たとえ宣伝戦に乗っけられたとしても、自分の考えに基づいて具体的に行動した人が多数いたからです。日本の場合は、メディアを通じた宣伝をひたすら受け身に受け取るだけで、大した意思表示もせずに「勝ち馬」に乗っかった観があります。自分は参加しないで見てるだけの「観客型民主主義」の典型の選挙だったと思います。

 さて、その選挙の結果、強者に甘く、弱者に厳しい新自由主義的政策が、「改革」の名の下にほぼフリーハンドで推進される状況が出来上がってしまいました。これから予想されることは、自分たちの住んでいる街や、働いている所で、政府の政策によって「痛み」が押しつけられる事態がどんどんと増えてくることです。憲法「改正」によって、国家を縛るはずの憲法が、国民を縛るものに変えられ、その結果でてくる国民の不満を対外的に「敵国」を作ってそらされることもあるでしょう。国民の不満が手に負えなくなれば、9条改定によって国軍化した自衛隊に鎮圧される事態もあるかもしれません。貧富の格差が拡大・固定化し、救済を求めて運動しても相手にされないなどということもあるかもしれません。

 いま、与党勢力に投票した人で、勝者の気分に浸っている人たちも少なくはないでしょうが、そういう「勝ち馬」に乗ったはずの人々にも、小泉政権による「痛み」は容赦なく襲ってくることになるでしょう。その「痛み」が具体的になったときに、初めて自分の選択の「結果」の重みを知ることになる人は少なくないだろうと思うのです。

 そういう人たちに対して、「自業自得」「自己責任」と言ってしまうのは簡単ですが、でもきっと、そういう人たちに対してもケアをする必要はあるだろうとも思います。だって、誰であろうと(金持ちでない限り)「痛み」はほぼ無差別にやってきますから。ケアをしないと、自分に来る「痛み」が増幅してしまうでしょうから。

 冒頭に労働組合の話を書いた理由がここにあります。さまざまな「痛み」が容赦なくやってこようとしている中で、それに対して異議を唱え、具体的に対処していく中でしか、民主主義の「経験値」を積み上げることはできないと思うからです。

 いずれにしても、これから来るであろうさまざまな「不安」要因を、自分の住んでいる地域や働いている職場で、地道にひとつひとつ具体的にケアしていく活動が必要になってくると感じています。それを通じて民主主義の「経験値」をあげていく。そういう段階に来たのかな、と考えています。

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