10年と2年?「不安」が「暴走」する時

 地下鉄サリン事件から10年、米英「有志連合」によるイラク侵攻開始から2年。単なる偶然なのだろうけど、3月20日という日の、その附合に今さらながら気付かされた。
 両方の出来事について、もうそんなに時間が経ったのかという感情と、まだそれだけしか経っていないのかという思いが同時にあって、なんだか複雑な気分でもある。

 ただ、このふたつの出来事を並べて考えてみた時に思ったのは、どちらも「不安」に対する反応というか対処として表れてきた出来事ではないかということだ。少なくとも、一人の市民というか住民、国民というレベルから、表面上そう見えるということに過ぎない話だが。

 当時、オウムに入信していた、事件には関りのない一般の信者たちはなんでそこに居たのだろう。個人的ではあるが、ずっと気になっていたことだった。そのことにヒントを与えてくれたニュースを先日見た。3月18日の「報道ステーション」が、現在のオウム真理教(現アーレフ)の状況をレポートしていた。
 そのレポートの中には、地下鉄サリン事件以前から入信していた古参信者数名のインタビューがあった。細かいことは覚えていないが、彼らのインタビューを聞いた限りで感じたのは、この人たちはそこに自分の居場所を見いだしたということだった。入信のきっかけとなる直接の理由はさまざまだった。ただ、共通していると思ったのは「漠然とした不安を抱えていたんだな」ということだった。この人たちは、自分が生きている社会などに対する不安を解消するために選択したのがオウムという宗教だったのだろう。

 社会に対する不安なら、程度の差はあれ誰でも持っているものと思う。その不安の強弱は人によって違うものだから、一概に語ることはできないが、あの地下鉄サリン事件は、バブル崩壊後どんどん不況が進んでいく中で起こった。誰もが抱えていた「漠然とした不安」が強まっていきつつあった中で起こったと考えていいと思う。ある意味、社会の先行きに対する「漠然とした不安」は高度成長が終わった頃から始まっていたのかもしれないが、バブル経済とその破綻を経て、その「不安」は一気に強まったのではないかという感じがしてならない。そういう状況下で、とりわけ強い「不安」を抱えていた人たちが、「オウム」という名の「大いなる物語」に惹かれていったのだとしたら、その心境はなんとなくだが理解できなくもないと感じている。誤解があるだろうことを承知で言うならば、それは「安心できる居場所」を求める気持ちなのだろう。

 このことは、米英「有志連合」によるイラク侵攻を支持する人たちにもあてはまるのではないか、とも思っている。開戦の大義名分であった「大量破壊兵器の除去」というのは、イラクにおいて肝心の大量破壊兵器が見つからず、根拠としたデータや資料もウソが含まれていたと当事者たる米英が事実上認め、この戦争はウソの理由によってはじめられたということがほぼ確定しつつある。
 その時、それでもこの戦争が必要だったとして持ち出されてくる理由の一つとして「あのようなならず者を放っておいたら、何をしでかすかわからない。だから排除すべきだった」というのがある。
 このような意見こそ「不安」の裏返しなのだろうと思う。「ならず者を放っておくと世界の安全に悪い影響を及ぼす」と、権力者以外の人間から主張される時の「世界」とは、おそらく自分の住む国や街であり、民族や家族であるのだろう。そこには、自らが帰属する集団を脅かすものは敵であり排除されるべきというロジックが働いている。

 まさにこのロジックは、一般の市民が抱える「漠然とした不安」によって支えられている、と私は考えている。先行きの見えない社会に生きる人間ならば、おそらく誰でも「漠然とした不安」を抱くだろう。そしてその「不安」の正体を探し出し、除去したいと思うだろう。それが「宗教」になるのか「ならず者」になるのか、あるいは別のものになるのかは人それぞれだが、その「漠然とした不安」が強まれば強まってくるほど、とられる対処法が過激になってくる。
 オウムが、ありもしない「終末」を強調して、「選ばれた自分たち」による「新しい社会」を作るために「最終戦争」を起こそうとして、地下鉄サリン事件を含む一連の事件を起こしたのは、「不安」が暴走した時にどんなことが起こるかを示した格好の例ではないだろうか。ことさら「世界の不安定化」を強調し、自国よりはるかに低い国力しか持たない国に、圧倒的物量をもって侵攻したアメリカ政府の行動を、支持するアメリカ国民(ここではイラク戦争を支持しないアメリカ国民は除く)の「不安」とは何だろう、と思ってしまう。

 近ごろの日本でもいろいろ思うことがある。近隣諸国の「脅威」をことさらあおる政府の行動やマスメディア、「異なるもの」を攻撃し排除しようとする主張が目立つネットの「言論」の存在。10年前に比べても、この国の先行きの不透明さが増すばかりの状況の中で、自分たちと違う「他者」を攻撃し排除しようとし、「この国のあるべき姿」を強調し同調をせまる流れが強まっているように感じている。
 私なぞは、そんなことをしてもこの国や社会はよくならないと思っているが、少なくとも、今見極めるべきは、それぞれが意識または無意識に感じている「不安」がいったい何なのかということだろう。でなければ、「不安」が暴走をはじめて、個人を押しつぶそうという状況が生まれてしまうのではないかと危惧している。私はこのことを、過大に見積もっているつもりはないが、過小に見ることもできないと思っている。

 攻撃すべき他者を探す暇があるなら、自らが意識的・無意識的に抱える「不安」の正体を見極める方がよっぽど有意義だと思う。

参考文献:
中島梓「コミュニケーション不全症候群」ちくま文庫 ISBN4-480-03134-0(原著は1991年刊行)
辛叔玉「怒りの方法」岩波新書 ISBN4-00-430890-9
テレビ朝日・報道ステーション3月18日放送「なぜこんな宗教捨てられないのか・・・取材記者との激論の果てにみえたオウムの今」(番組タイトルは東京新聞テレビ欄の内容より)

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