過剰な「誇り」は原理主義につながる?「自国文化に誇りを持つ“過ち”」(宋文洲)を読んで

 前のエントリーで「安倍首相にエールを送る人」と紹介した同じ人のコラムが秀逸でしたので紹介したいと思います。
 日経ビジネス「NBonline」で宋文洲(そう・ぶんしゅう)さんという中国人ビジネスマンが連載している「宋文洲の傍目八目」というコラムの最新号「自国文化に誇りを持つ“過ち” 」です。

 安倍首相にエールを送ったコラムは、個人的に変だと思ったのであのような紹介の形になりましたが、この方の書くことは、立場の違いはあるにせよ、頷かせてくれることも少なくありません。今回もそう思わせてくれる一文でした。

 要約すると、「文化は国に属するものではなく地域の風習や自然と歴史から育まれてきたものだ、と言うのが僕の持論」と宋氏は考えているが、最近中国でも自国文化に過剰な「誇り」を持たせようという主張が出てきているといいます。
 例えば日本でもなじみの「端午の節句」。この習慣は中国にも韓国にもあるそうですが、2005年に韓国が、自国の「端午祭」(正式には「江陵の端午祭」)をユネスコの世界無形文化遺産に正式に申請したことを聞いて、中国では、こちらも申請すべきとか、「本家は韓国でなく中国」などという主張がでているとか。
 文化は、その土地の人間が昔からさまざまな営みを経て作り伝えてきたもの。だからといってそのまま現在のその土地にいる人間にイコールで属すると考えるべきではないと考える同氏は、「当時、その地域で成り立った文化を、現在の国の単位で「本家は」とか「本来は」と誇りの種にするのは、先祖の行為を侮辱することにはならないでしょうか。」といいます。
 で、なぜそう考えるか。コメを例に「米は最初どこで生まれたのかは、重要ではありません。その地域の人たちの舌に合わせて変化してきた過程にこそ、文化や伝統の意味があるのです。」と説明します。そして「自国の文化と歴史を過剰に評価する人々も「文化原理主義者」と言えるのです」と指摘しています。
 独自文化を誇りにとはよく聞くが、自国の文化をバックに他を見下すのはフェアでないとし、「相手の文化を認めてこそ自分の文化の特色を認識できるものなのに、相手の存在を無視するのは内面では自分に自信が持てないからだと思います。」と語ります。
 最後に、「誇り」といえば聞こえがいいが一歩間違うと自分以外を見下すことになってしまうとし、「過剰な「誇り」は、必ずや報いが来ることを歴史が教えています。」と締めくくります。

 至極もっともな内容と思います。教育基本法が「改正」されようとしている折、こういういわゆる「自国原理主義」がそこかしこに見え隠れしていると思います。まあこの手のことはどこの国にもあるものなのでしょうが、この国のこの手を主張する方々には、ぜひ読んでいただきたい一文であります。「美しい国」を標榜する方には特に、ということで。

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